森元首相発言の波紋 _ 1


朝日デジタル 2021年2月27日(土) 

森氏発言、気づかされた性差別の核心 星野智幸さん寄稿_


 モントリオール五輪を小学時代に見て以来、私はオリンピックにいつも心ときめかせてきた。今サッカーや相撲のファンであるのも、オリンピックでスポーツを見ることの喜びを知ったからだ。

 それなのに、十数年前ぐらいから、次第に嫌気が差してきた。なぜなのか、今回のオリンピック・パラリンピック組織委員会・森喜朗前会長の女性差別発言と、それをめぐる社会の状況を見て、得心がいった。

 一言でいえば、オリンピックは選手のためでも見る人のためでも開催地の住民のためでもなく、主催する関係者のごく一部の人の利権が何よりも最優先されるということが、ごまかしようのないほどはっきりしたからだ。

 問題となった、2月3日の日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会での、40分にも及ぶ森氏の全発言を読むと、コロナ禍で開催への反対が広がる中、強い焦燥を隠さず、さまざまな方面への非難を口にしている。その一つの非難対象が、「もの言う女性たち」だったわけだ。

 森氏はこの発言の中で、自らの功績を並べつつ、偉い人(森氏など)をチヤホヤするのはやめなさいと注意してやった話などを披露している。そこからうかがえるのは、民主的な制度の上に立つ存在として自分を位置づけ、独断で成果を出してきたことの誇りの感覚だ。一般的にはこのような組織のあり方を、「私物化」と呼ぶ。

 俺は性差別なんかしないよ、男女は平等だと思っている、でも結局成果を出すのは男ばっかりなんだよ、という趣旨のことを言う男性はものすごく多い。私もまわりの人から、ことあるごとに聞かされてきた。今回も、経済同友会の代表幹事が、企業に女性役員が少ないことについて、女性側にも原因がないわけではない、チャンスを積極的に取りにいこうとする女性が少ない、と言っている。

 医学部入試で女性が低く点をつけられていた例でも顕著なように、女性のスタートラインがマイナス地点に置かれていることが、いまだにわかっていないようだ。

 困ったことに、発言者は本当に公平な気分でこのように思っていることを、私もよく知っている。なぜなら、私もそんな感覚を若いころは持っていたので。

 まだ小説家になる前の1990年代、フリーで翻訳やライターの仕事をしていた30歳前後の私は、「あなたが仕事で成果を出せたのは、男であるがゆえに好意的に見てもらえるからだ」というようなことを、ともに働いている女性たちからしばしば指摘された。

 心外だった。私は地味だったし積極性に欠けるし、むしろ能力が足りないと劣等感のほうを強く抱いていたから。できない自分が、なぜできる女性から「優遇されている」と非難されなくてはならないのか、と不当にさえ感じた。

 私が、できる女性と同等に評価されていたことこそ、下駄(げた)を履かせてもらっていたことの証しだと了解するようになったのは、もう21世紀になるころだった。

 無意識の奥深くに刷り込まれたあたりまえの感覚を疑い、それはあたりまえではなかったと理解するのは、洗脳を解いて信心をリセットするようなもので、かなりの時間と労力を必要とする。アルコール依存症の人が酒を断つ過程とも、似ているかもしれない。

 男として劣っていると思っていた自分でさえじつは優遇されていたと納得してから、私は必死で「男性であること」から降りる道を探し始めた。自分が何らかのセクシュアル・マイノリティーかもしれないと自問する、ということではない。カテゴライズすれば私は異性愛者の男性のままだが、マジョリティー男性の中にも構造的な力関係が複雑に存在していて、その支配構造を明らかにすることで、何をどう変えていけばいいのかを探る、ということである。

 男として劣っているのにどこが優遇されているんだ、という不当感を覚えた、と書いたが、鍵はここにある。男社会の中にあって、じつは多くの男性は何かしらの劣等感を抱かされている、というのが私の実感だ。

 森氏の例を考えよう。森氏発言の後の報道を読むと、組織委の理事会はかなり形式的なもので、事実上、森氏独壇場の組織運営だったことがほの見える。国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が、森氏は直ちに謝罪したのだから問題なしとして、一度は続投を認めたのも、おそらくほぼすべてを森氏が担い動かしているから代えはきかないと判断したからではないか。つまり、ほとんどの実権が森氏一人の手の中にある、という運営の仕方をした結果、他の人は手を出せなくなり、森氏は自分が不要とされることはありえない、という傲慢(ごうまん)な確信を強めていったのではないか。

 となると、女性どころか、大半の男性たちも、この組織の中では蚊帳の外に置かれ、ただ言われた役割をこなす(わきまえる)位置に置かれていたことになる。端的に、民主的に運営されていなかったのである。

 ここまで極端ではないにせよ、多かれ少なかれ、日本の組織は同じように運営されることが少なくない。1人ないしはごく少数の、声が大きく人事にたけた男性が物事を決定する権利を事実上独占し、他の者は仕方なくのみ込む。それでも男性であれば、正社員に採用されるとか係長になれるとか、小さな利権を分配されて身分は保障されるので、それを失いたくないあまり、黙って従う。その結果、できない男という劣等意識と不当感を心のうちに押し隠しながら、女性が評価されないのは成果を出せないからだ、などと自分を必死で正当化する。

 本当にこれでいいのかと、実際には権限から疎外されているマジョリティーの男性たちに、私は問いたい。そのように唯々諾々と従う毎日は、納得できる生き方なのだろうか。「仕方ないよ」とその強権を受け入れてきた姿勢が、性差別の構造を温存してきたのではないか。本当は不平等のせいなのに、自分の惨めさを覆い隠したくて、女性が差別されていることを無意識に黙認するという態度は、差別されている者がより弱い立場の者を差別する、という連鎖と階級を作り出す。

 性差別をなくし、いかなる性の人でも公正に評価されるようになるためには、今男性が独占している権利(というか利権)をいったん手放さなくてはならない。女性にも分けてあげる、ではなく、権利すべてを返上しなくてはならない。再分配はそれからだ。

 その代わり、この再分配がプラスになるのは、女性のみならず、これまで権利から疎外されてきた多くの男性でもある。アクセス権をまったく与えられなかった女性と、ごく一部のアクセス権しかもらえなかった男性に、すべてのアクセス権が解放されるのだから。

 つまり、男性たちは、目を背けている自分の鬱屈(うっくつ)から解放されるには、一部の男性が強圧的にふるまうことに異議を唱えるべきなのだ。抗議をしてこなかったことが、森氏が体現した、独裁的運営や性差別、過ちを認めない自己正当化、既成事実化させてしまえばこっちのものといった手法を許し、はびこらせてきたのだ。

 性差別やセクハラが起こると、無関係の男たちもバツの悪い思いをする。程度の差はあれ、自分も知らず知らずのうちに差別的な物言いをしているかもしれない、と不安になるから。少なくとも、それが差別的で許されないということは理解するようになった。今回の森氏の発言を、まるで人ごととして批判できる男性はきわめて稀(まれ)だろうし、この件に言及して自分に延焼させている政治家や経済人の男性も少なくない。だから、自分を検証することは、まず最初に必要な作業だ。

 けれど、反省を表明するだけで安心するのなら、状況はあまり変わらない。男性は、自分たちが黙って従ってきた不公平な力の分配に異を唱え、権限を放棄してこそ、これまで優遇されてきたことの返済を開始できる。それがマジョリティー男性の責務だし、解放だと私は思う。

 女性は、声を上げることで変えられるという手応えを感じ始め、ますます声を上げるようになっている。男性も同じだ。誰であれ、同じだ。

 思い起こすのは、2年前の女子サッカーのワールドカップで優勝した、アメリカのラピノー選手の言動である。マイノリティーの平等と解放と共生のために行動することを、「世界をより良くするのは個人の責任。あなたはただファンでいるだけではない、私たちが世界を変えるために成し遂げたことを、みんなも自分の殻を破ればできるはず」という言葉で、身をもって示し呼びかけたその姿に、私も大きな解放を感じた。あれこそがスポーツの持つ、新しい力だった。そして、女子サッカーが、スポーツの持つ負の側面を乗り越えた瞬間だった。

 日本でも、そのような女子サッカーの力を掘り起こすべく、今年の秋には「WEリーグ」が発足する。理念などにジェンダーの平等と多様性が掲げられ、運営に関わる役員の半数以上を女性とすることが義務付けられている。

 オリンピックも潜在的にはそのような力を秘めていると、私は感じている。女子サッカーのように、ともすると暴力を肯定しやすいスポーツの欠点を乗り越え、多様性を実現する場として生まれ変わりつつある側面と、勝利至上主義や軍隊的文化、国威発揚の装置といった、過去のマチスモ(男性優位主義)的亡霊がいまだに幅を利かせている側面とが、今はせめぎあっている。

 しかし、一部の利権のために非民主的で差別的な運営をしてきた、森氏型の旧態依然のシステムを、開催優先のために擁護するIOCには失望しきって、私の五輪への信用は消滅した。まさに、すべての利権を手放して分け直すところからしか、オリンピックの再出発はありえないと思っている。




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『piping pipe』制作のための あれこれ。